2016年12月29日 星期四

備前市消防団日生方面隊放水演習(源平放水合戦)

備前市消防団日生方面隊放水演習(源平放水合戦)

開催日時
2017年2月5日
源平放水合戦12:00~
開催場所岡山県備前市 日生港内
主催備前市消防団日生方面隊
お問い合わせ日生総合支所管理課 0869-72-1104
関連ホームページhttp://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/event/winter.jsp#genpei
アクセス赤穂線「日生駅」から徒歩15分

2016年12月26日 星期一

特別史跡舊閑谷學校

無論是JR吉永站或備前片上站都與學校有一段距離 若不想走路去 就要搭市營巴士 但車班很少 去之前最好要計算好接駁時間

備前市営バス 吉永線をご利用の場合

山陽本線從岡山到吉永最快約一小時車程
平日從吉永站發車的市營巴士時間是
0755
0935
1417

假設搭0935那班巴士(一律200)
那就要在岡山搭0817那班電車
0912到吉永站
車資單程約700

Information

地址:岡山県備前市閑谷784
開門時間:9:00~17:00
定休日 :無(12月29日~31日休館)
最近車站:JR吉永站
交通方式:從JR吉永站徒步約40分、路線巴士約12分
(路線巴士為平日上下午各1班、星期六上午1班、星期日、節慶假日、彈性放假休班)
入館費:成人400圓、國中小學生100圓、65歳以上200圓
(30名以上團體時為成人320圓、國中小學生80圓)
電話:0869-67-1436
網站 :特別史跡旧閑谷学校

2016年12月25日 星期日

備中松山城

備中松山城

2016年10月改正之從備中高梁駅到城見橋公園駐車場的接駁巴士運行時刻表

4月・5月・6月・10月・11月のいずれも土曜日・日曜日・祝日のみ(週末及假日)

很顯然地
2017年二月初去岡山的我們無法搭巴士上山

若要上去
要不就是花九十分鐘走上去
或是
預約計程車上去

標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。


備中松山城観光乗合タクシー/バス

現存天守の残る日本一高い山城は標高430m。
天空の城の異名をもち、ハイキングコースとしても人気!
ふいご峠(parking)から徒歩20分、90分~120分で往復

アクセス

<自家用車の場合>
シャトルバスが運行していない日に限り、ふいご峠(8合目)まで自家用車であがれます。シャトルバスが運行している日は城見橋公園(5合目)に駐車していただき、シャトルバス(往復400円)でふいご峠(8合目)まであがっていただくようになります。ふいご峠(8合目)からは徒歩で約20分程です。

莫驚慌 慢慢走就可以了 城主提醒

 市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている、『臥牛山(標高約480M)』。
北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰
からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約四三0M)を中心に築か れた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和十六年には国宝(昭和二十五年文化財保護法の制定により 重要文化財)の指定を受けています。
また、平成六年度からはこれら重要文化財を中心に、本丸の復元整備が行われており、本丸の正面 玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが忠実にもと づいて復元されています。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。

備中松山城の歴史

この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正二年(1574)に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえます。
当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が
防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子(德川家康派任)により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。

以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する
天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。

明治2年(1869年)には勝静は山田方谷らの説得を受けて降伏して禁錮刑に処せられ、また、石高も2万石に減封。勝弼(第5代藩主・勝晙の甥)が藩主となり、藩名も伊予松山藩との混同を避けるために高梁藩と改称された。(戊辰戰爭支持幕府軍的後果)

天守の残る唯一の山城 


備中松山城の天守は現存天守12天守のうち、唯一の山城に残っている天守です。
 二層二階の層塔式の天守で、天和3年(1683)に水谷勝宗(みずのやかつむね)の大改修の際に現在の形になったといわれており、約330年間経過しております。
 天守の高さは約11mで、現存天守の中では最も低いものとなります。


二重櫓(にじゅうやぐら)

一階の床面は7.9m×5m、棟までの高さは8.4mあります。入母屋造りの屋根は本瓦葺きで、大棟の両端に一対の鯱(しゃちほこ)を据え、破風には梅鉢懸魚が飾られています。入口は一階の北と南に設けられていて、本丸と後曲輪(うしろぐるわ)を結ぶ役割を果していたのではないかと考えることができます。漆喰塗りの連子窓は各面1・2ヵ所に開いていますが、城外に面した西面のみ3ヵ所とし、石落しも設けて防備を固めています