廊下門:上有連接藩主宅邸及藩廳的通道
築城時的城牆遺跡
月見櫓是城牆轉角邊的守望樓
保存食物的地窖
圓形和方形的射擊孔
築城迄今地表高度的變化
入主城的門 因經常處於大門深鎖的狀態 所以叫不明門
天守閣在二戰後被燒 之後以鋼筋水泥重建 將原來的礎石排列於本城內的廣場
金鯱:驅邪表尊貴
看了說明才知道原來大石頭可以用來顯示藩主的威勢 所以大名們流行收集大石來築城
岡山城是戰國時代的大名宇喜多秀家耗時8年建造,於1597年竣工。由於城堡的朝向為西,因此秀家為了防止敵人從背後入侵而開展了大規模改造工程,使附近的旭川流經城堡東後側。作為那個時代的建築特征,天守閣的牆板被漆成黑色,,因此後世根據其外觀稱之為“烏城”。秀家不僅將岡山城用為作戰設施,還將商人及工匠聚集到城堡周邊,發展並完善了城下町。
池田家成為城主之後,17世紀末,在被旭川隔斷的北側建造了面積廣大的大名庭園——岡山後樂園。
在歷代城主的統治下,岡山城一直親眼目睹著岡山的城市建設發展,并為現代都市奠定了基礎。
月見櫓
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓(角望樓)です。二階の城内側は廻り縁側を設けて開け放した佇まいで、日常の生活にも使用できるような構造となっていて、名前のとおり月見にも適していました。二棟しか残っていない当時の建物の一つで、重要文化財です。
他に、戦災で奪われた旧大天守の礎石をあったとおりに配置した大天守礎石跡、がある。コンクリート造で再建したため礎石が要らなくなったため、ここで展示しているようだ。広島城や姫路城などでも見られる、旧天守の礎石列。
明治6年(1873年)の廃城令で軍用地として残す存城処分となり、建物は順次取り壊され、堀は埋め立てられた。 明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。こうして昭和初期頃には城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、昭和20年(1945年)の岡山空襲で天守、石山門が焼失した。 平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。
日本100名城 / 続日本100名城 訪問記
岡山城 [1/4] 大手側と搦手側で表情が全く異なる大天守へ。
金鯱:驅邪表尊貴
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