2017年6月1日 星期四

松江城

松江ぐるっと(循環)レイクラインバス(lake line)

レイクライン1日乗車券:大人500円 小人250円
JR松江駅を起・終点に20分〜30分間隔で運行する周遊バスです。
レイクライン1日乗車券、松江乗手形(共通2日乗車券)をご利用の方は、下記の施設で利用料金の割引(打折)

  1. 松江城の歴史

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、遠江国浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。豊臣秀吉、徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残している。城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いた。

堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜(福井県)から出雲に入国した。3年余りの短い統治期間であったが、当時、度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修をした。現在でも京極若狭守忠高にちなんだ「若狭土手」という名を残している。また、幕府直轄領であった石見銀山(世界文化遺産)の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主のなかで最大の領地を治めた。徳川二代将軍・秀忠と正妻・江夫妻の四女が忠高の正妻・初である。

京極家の跡を継ぎ、信濃国松本(長野県)から出雲に入国した。慶長19年(1614年)、14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘した。敵将真田幸村は、その武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたという。徳川初代将軍・家康の第二子・結城秀康の第三子である。 城主 [初代 直政(なおまさ)]---[綱隆(つなたか)]---[綱近(つなちか)]---[吉透(よしとお)]---[宣維(のぶずみ)]---[宗衍(むねのぶ)]---[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]---[斉恒(なりつね)]---[斉貴(なりたけ)]---[定安(さだやす)]

明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。 天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。 ※当時米一俵(60公斤)が3円弱といわれた。

1935年(昭和10年)「国宝保存法」により国宝に指定。
1950年(昭和25年)5月文化財保護法制定により、「重要文化財」と呼称。
2015年(平成27年)5月15日 国の文化審議会において、国宝に指定するよう文部科学大臣に答申がなされる。
2015年(平成27年)7月8日 正式に国宝に指定。

松江のシンボル(symbol) 松江城は全国で現存する12天守のうち、国宝の一つで唯一の正統天守閣ともいわれております。


櫓3棟復元
かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓があった。このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13年に約125年ぶり(明治8年取壊し)に復元した。

石垣
「※野面積み」と「※打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法。 石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要したと云われています。 松江城は5年間で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしました。 石垣積みは、穴太頭二人が ※穴太衆(一族)・子供衆(見習い)を従え、石工は大阪から招き石垣を構築しました。

※穴太衆(あのうしゅう)・・・石垣築成集団 穴太とは地名(大津市坂本町穴太)。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った達人がいました。松江城の石垣もこの「穴太衆」が招かれ築成しました。
野面積・・・自然石や割石を積む方法 
※打ち込み接(はぎ)・・・石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方。


<3館共通券>
松江城天守閣、小泉八雲記念館の2館と、小泉八雲旧居、武家屋敷のいずれか1館

堀川遊覧船


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